映画『きみの声をとどけたい』感想~「コトダマ」の力と呪い~

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 2017年8月25日。夏の終わりのその日「きみの声をとどけたい」という映画が公開されたのをご存知だろうか?大掛かりな宣伝をうった大作映画や話題の映画が多く公開されているこの時期、一つの名作がひっそりとこの世に生み出されていた。湘南の風が吹き抜けていくような爽快感、観た人の心に「声」や「言葉」の力について優しく問いかけてくれるような暖かさが感じられる作品という印象だった。そして何より、この作品の素晴らしさを自分の声でとどけたいという気持ちになる作品だった。

 

 

きみの声をとどけたい」ってどんな作品?

 

①.キミコエ・オーディション

一般的な作品の感想の場合まずはあらすじから書くところだが、この作品にあたってはキミコエ・オーディションの存在を避けることはできないと思う。

kimikoe.com

キミコエ・オーディションの詳細は上記のサイトに載っているため一読して頂くのが一番早いが、お忙しい方のために簡潔にまとめるとオーディション合格者には

  • CSファミリー劇場でのメイン番組出演
  • 声優事務所オフィスPACへの所属
  • ランティスよりCDデビュー
  • オーディション期間中に映像テクノアカデミアにて、プロの講師陣によるレッスンを受講
  • 2017年夏公開の劇場アニメーション作品にメインキャストとしてデビュー

という声優を目指す方にとっては非常に魅力的な特典のついたオーディション企画であり、ドキュメンタリー番組の作成(オーディション自体)、新人声優育成、歌手ユニットプロデュースを目的とした総合的なプロジェクトであり、その一環として「きみの声をとどけたい」という作品が存在しているのだ。こういったことから、映画単体の出来の良さ?を評価する評論家の方とプロジェクト全体を通しての意見を書いている方が混在しているということを覚えて頂けると、また一つ見え方が変わってくると思う。

 

※ここまで読んでオーディション自体に興味を持った方は、まずこちらの動画を。

それぞれ3分30秒程度の動画が全11回で公開されている。

www.youtube.com

 

②.あらすじ

あらすじについては公式サイトのstoryに全てがつまっている。kimikoe.com

 

そして本予告も公開されているが、何も前情報を入れずに観に行きたいという方は

こちらの動画はスルーして劇場に向かうことをオススメする。

www.youtube.com

 

多少のネタバレを許容してもどんな雰囲気か知りたいという方はこのミュージックビデオもオススメ。キミコエ・オーディションの合格者で、メインキャスト6人の声優もつとめたユニット「NOW ON AIR」が歌うED曲と特別映像。爽快感に溢れた名曲。

 

gyao.yahoo.co.jp

 

 

以下本編ネタバレありの感想

 

 

①「コトダマ」はなんでカタカナ??

  まず「コトダマ」という言葉を耳で聞いたとき、自分の脳内で変換されるのは「言霊」という文字だ。言霊という言葉についての理解度と印象は鑑賞者ごとに異なるものであり、日本に古来から根付く言霊的思想、そして言霊学の知識がどれだけ認知されているものかは誰にもわからない。そんな中で、日常生活でコトダマという音を聞いた時に一般的に共有されている認識は「言葉には力がある」「願いを口にすると叶う」「悪いことを言うと本人に返ってくる」というくらいだと想像している。そして、それはどこかオカルトでスピリチュアルで胡散臭い印象を持つ人も多いのではないだろうか。

 さて、話を「きみの声をとどけたい」に戻すが、この作品における「コトダマ」のスタート地点は主人公・なぎさの祖母が「コトダマって言ってね。」というセリフにある。ただ、その言葉を聞いた幼いなぎさは「コトダマ」という耳から声で聞いた言葉をどこまで理解したのだろうか。そして、コトダマのことを教えた祖母自身が、コトダマという言葉の持つ意味をどれだけ理解をした上で発言したのかは想像するしかない。こういったことを踏まえて、学術的、歴史的な背景を持つ「言霊」という言葉とこの作品における「コトダマ」という言葉は違っていて、なおかつ文字によって伝えられた情報ではなく祖母の声としてなぎさの耳に、心に届いた言葉であると私は考えた。

 

②主人公・行合 なぎさ

 なぎさというキャラクターの理解はかなり難しくて興味深いなというのが初見の時の印象だった。鐘を鳴らして叫ぶ、不法侵入をしてラジオの真似事までする、紫音から届いたメールに対するリアクション等々、良識をもった高校2年の女子高生とは言えない。蛙と会話をしたりコトダマが見えるという不思議ちゃん?っぽさ、初めて紫音と出会った時や夕と二人で会話する時、終盤紫音と言い合いになった後と叫ぶように泣く。うまく言葉にできない想いを抱えていて、ラジオの真似事をするシーンでは将来のことや友人関係にも疲れていますという言葉を口にする。

 なぎさのキャラクターを考える上で大事なのはもちろん「コトダマ」を信じているということだ。ただ、この「コトダマ」を信じているからこそ、悪いことを口にしたり、相手が前にいる時にはマイナスな感情を伝えることに対して臆病になっている、恐怖を感じているという印象を受けた。これは、きつい表現をすれば祖母から幼いころにかけられた「呪い」とも言えるのではないだろうか。生きていると負の感情を抱くことはいくらでもあるし、その時に口にだせない、愚痴も弱音も吐けないということはストレスを一人で抱え込んでしまう原因にもなる。

 

③矢沢 紫音

 紫音のキャラクターはなぎさに比べると割とすんなり入ってきた感じだ。幼い頃に母親が寝たきりになっていることが彼女の人格形成に大きな影響を与えているが、作中でもなぎさが触れているように亡くなったということではないことが非常に重要な要素である。どちらが悲しいかという話ではなく、寝たきりになっていることでいつ目を覚ますのか、もう二度と目を覚まさないかハッキリとしない状況にこれまでずっと置かれていたのだ。紫音はこれまで幾度となく母親に目を覚まして欲しいと願い、声に出してきたということは想像に難くないが、その月日が余りにも長かった。転校が多かったことも相まって、母親のことだけでなく普段の自分の気持ちや願いを口に出すこと、相手に届けようという行動に関しても消極的になってしまっている。初めて二人でラジオをした時に「私には伝えたいことなんてない」と言った紫音のセリフがとても印象的だった。自分自身を振り返ると、自分のことを話したい欲求が今よりずっと強かったのに、この子は何て悲しいことを言うんだろうって。

 なぎさがマイナス方向の感情をうまく伝えられないように、紫音の方はプラス方向の感情をうまく伝えられないようになっていて対照的だ。その二人が偶然ミニFMという狭い範囲にしかとどかないラジオを通して出会ったからこそ物語は進み、小さな奇跡が起きた。

 

④ストーリー進行

 ストーリーを振り返るとこの物語で大きく分けて3つのテーマが進行していた。一つは一番の盛り上がりを見せるラストシーンにあるように「朱音に紫音の声がとどくかどうか」。二つ目は「かえでと夕が仲がどうなるか」。そして3つ目は「なぎさがどう成長するか(自分の気持ちを伝えられるようになるか)」それぞれが同時に進行しながらも、非常にわかりやすく伝わってきて構成の巧さが光っていたと思う。

 最初の二つに関しては、あらすじや予告編の動画から想像していた通りの展開になり、おそらく自分だけではなく皆がまぁこうなるんだろうなっていう予想した通りに物語が進行したのではないか。ただ、大筋の展開が予想通りだったからと言って退屈だった、つまらなかったかというと全くそんなことはなかった。むしろ、期待していったものを期待以上で返して頂いて本当にありがとうという気持ちで一杯だ。

 3つ目のテーマを考える時、一番大事になってくる所は本当にラストのなぎさのシーン。時間にすると非常に短いが、これがあるかないかで物語全体の印象や持つ意味が随分と変わってしまうし、好みもあるんだろうなぁという部分でもある。ただ、個人の好みとこの作品がなぜそう作られたのかは別の話であって、そこを考えていきたい。

 もし、夏休みが終わって校庭で走っているシーンでこの作品が終わっていたのであれば、「朱音に声がとどくという奇跡の物語。そして、この物語を通して成長したなぎさは将来に関してはまだ未定で可能性はいくらでもある」という印象が強くなったのかなと。ただ、最後のシーンをはっきりと描ききったことによって「自分のやりたいことを見つけたなぎさ。その願いを口にすることで自分のなりたいものになれた」という印象が私の中に強く残ることになったのだと思う。その後どうなったのかは皆さんの想像にお任せしますよと余韻を残すこともできたところを、「きみの声をとどけたい」って作品はこういう物語ですよ、こういうメッセージをとどけたいんですよという製作者側の声が私には聞こえてきた。

 

⑤『きみの声をとどけたい』というタイトル

 映画を観終わって作品の内容を一通り振り返ってみた後に、あれ?このタイトルってそういえばどういう意味なんだろうってふと考えた。作品によって作中の印象的なセリフだったり、内容を端的に表した言葉や主人公の名前だったり、意味があったりなかったりとするものだ。ここからはもう単なる妄想に過ぎないが、きみの声をとどけたいという文章の空いているところを補足してみると『(誰が)きみ(誰?)の声を(誰に)とどけたい』のかという文章が浮かび上がってきた。

 元々が仮定の問題に答えは存在しないのは当たり前だけど、色々と妄想を膨らませていくのは面白い。一番最初に浮かんだのは物語の序盤。なぎさが紫音の声を朱音にとどけたいと提案して行動を始めることから物語が動き出した。行動していく内に仲間が増え、川袋電気店のオジさんもみんなの声を商店街にとどけたいと動いてくれた。かえでと夕の和解のためになぎさは二人の声をとどけようと動いていた。最後の放送をするために大吾は境内を使えるように交渉し、しょーちゃんを始め商店街の人も手伝ってくれた。6人の声を紫音と朱音にとどけるために。一つ引いた視点で考えると、製作関係者は『きみの声をとどけたい』という作品を観客にとどけたいと想いをこめていらっしゃるだろうし、私自身もこの作品の良さをこの記事を見たあなたにとどけたいと思って、今この文章を書いている。

 一人の人間が特定の誰かに自分の声をとどけたい、一人の人間が不特定多数のだれかに自分の声をとどけたい、複数の人間がたった一人へ自分達の声をとどけたい、複数の人間が不特定多数へ自分達の声をとどけたい......普段の生活で聞こえてくる声、注意深く聞かないと聞こえない声、自分が発している声。世の中には数え切れないほどたくさんの声で溢れている。

 

⑥まとめ

 「コトダマ」をテーマに、最初から最後まで「言葉」「声」の力をしっかりと描ききったこの作品。「コトダマ」を信じるが故にうまく気持ちを表現できないというマイナスの要素もしっかり描くことによって、変に説教っぽく胡散臭いポジティブ教のようにならず、伝えたいことを伝えつつも爽やかな気持ちで映画館から現実世界へ送り出してくれた名作だ。そして、自分自身が常日頃考えていることを丁寧に描いてくれた感謝の気持ちで一杯だ。

 ここからはもう自分の経験則になってしまうが「言葉には力がある」は間違いなくある。たった一言ありがとうと言われてすごく嬉しい気持ちになるだけでなく、日常的に使っている言葉によって世界に対する認識や行動自体がガラッと変わってしまうことだってある。「願いを口にすれば叶う」というのは真実でも法則でもないが、それを聞いて良い情報を教えてくれたり実現するために協力してくれる人は増えるし、助けてって声を出すと助けてくれる優しい人はたくさんいる。「悪いことを言うと本人に返ってくる」も同様に理論として正しいか正しくないかではないが、強く攻撃的な言葉を多く使っている人は漠然とした何かに不安や恐怖を感じてたり自分に自信がないのかなと思ったりもするし、あんまり近づきたくないよなっていう気持ちはある。ただそのくらい。

 この作品を観て「コトダマ」はあるんだ!!ポジティブな言葉だけを口にしていこう!!って気持ちが強くなりすぎると序盤のなぎさのように「呪い」にかかってしまうかもしれない。逆にこんなご都合主義なことは現実にはありえねー!!「コトダマ」なんてうさんくさいものはないわというのも何だかもったいないなとも思う。

 ダラダラと長文になってしまったけれども「コトダマ」の良いところだけをつまみ食いして、この作品から得たエネルギーを大事に使っていきたいな。願わくばこの名作がまだ存在を知らない人にとどきますように、この記事を見て映画に興味を持ってくれる人が一人でもいれば嬉しいな。そんなことを考えている夏の終わり。

 

 

 

 ※映画を観終わったらこのサントラ

映画『きみの声をとどけたい』オリジナルサウンドトラック「アクアマリンの思い出たち」

映画『きみの声をとどけたい』オリジナルサウンドトラック「アクアマリンの思い出たち」

 

 

小湊伊純は走る~動きで見るポッピンQ~

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ポッピンQは走る。走る。とにかく走る。

主人公である小湊伊純は陸上部に所属し、中学3年で100mを12秒切るような全国でもトップレベルの俊足である。ポッピンQを一度でもご覧になった方は、公開前の特典映像からそうだが、開幕、戦闘、大事な場面、ラストまで走っている伊純の姿が印象として残っているのではないだろうか。もちろん私もその一人である。

 

走るという動作は、前述の通り本作の主人公である伊純のキャラクターを印象づけるものであるが、同時にアニメーションとしての動きを生み出し、その方向によって物語の進行や心情、力関係などを表現する演出の一部であるというのは多くの人が認識していることであろう。ただ、どこまで意図的に作っているか、自身の作風として取り込んでいるかについては演出家ごとに特徴が異なっているはずである。

 

タイトルの通り、今回書きたいことはポッピンQにおける向きと構図である。ただ、それを伝えるためには、前提として私の頭に何があるのかということから始めなければいけないと思うのだが、かわりに一冊の本を紹介することで説明とさせて頂きたい。

 

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 

 内容については、それはもう多くの方が解説されている名著なので、もしまだ読んだことがない方は手にとって頂きたい。私の感想を簡潔に述べておくと、わかっている人は言葉にするまでもなくわかっていることを理論として体系だてていること、そして何よりも原則を絶対的なものではないと自身で語っている所に価値があったという感じだ。

 

前回書いた「評価」に関する記事と同様、今回の記事に関しても自分自身の強い主張を伝えるとかではなく、ちょっと頭に浮かんだ問いを書いてみようという気持ちである。結論というものがないので、まずは動きが大きい場面ごとにポッピンQ本編ではどうなっていたか書いていこうと思う。

 

 

※以下本編のネタバレ有り!!(画像は現在も公開されてる動画から)

 

 

①冒頭

顔のアップ↓から始まり道を辿って最終的に→

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②100m

→(陸上競技場のメインスタンドから見る方向)

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※電車の進行方向

←学校へ向かう方向 伊純が乗る方向→

 

③キグルミ 

→で逃げ始めて、あさひが待っている方向へ←

 

グロスと対峙

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⑤コロシアム

⑥戦闘終了後、レノと対峙

←(レノとレミィ&沙紀の間に伊純が入り←を向く構図)

⑦橋を渡るシーン

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⑧黒〇〇

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⑨別れ

⑩校門まで

⑪校舎から体育館の流れ

⑫美晴ちゃんへのバトン

→と思いきや←

⑬卒業は新しいスタートライン

← ↓顔のアップで〆

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他にパッと思い出せるところで言えば

・蒼の投げる紙飛行機の方向は→

・入学式でのキリシマ君(彼が下手、学生は上手)

・ラストのラスト(赤い球体は下手、沙紀と伊純は上手)

 

ただ、このように対比や上手下手の関係については挙げ始めるとキリがない。そして、全てを意図的にやっているのか、大事なシーンだけは意図的にしているか、全く無意識(経験)で絵コンテを切っているかは想像の域をでない。(第3回ファンミーティングの中で、若干情報は出ていたがそれはたった一つの事実ではない。)

以上のことを踏まえて、それでも妄想として自分が考えているのは

・物語序盤の進行方向は→の傾向。時の谷に入ってから基本的な進行方向は←

・→については後向きという感じ。←は前向き、立ち向かうという感じ。

・戦闘においては上手が強い。

・全体的に変わる分岐点は⑤と⑥の間で「超えた」ところ

という感じ。これが正しいのか、間違っているのかを議論したいのではなくて、私はこんな感じの印象として受けとりましたってことを書きたかった。そして、ファンミーティングの時にもしも当ててもらえたなら質問しようと思っていたことなのだ。残念。

 

...しかし!な、な、なんと、宮原監督や金丸Pに直接の質問ができなくても、新たに考える材料になる公式資料集、ポッピンQプロダクションノート「THE BEGINNING OF THE YOUTH」4/28に発売になるのだ。

 

ポッピンQプロダクションノート『THE BEGINNING OF THE YOUTH』

ポッピンQプロダクションノート『THE BEGINNING OF THE YOUTH』

 

 

キャラクター設定と美術設定をふんだんに盛り込み、さらに名場面の背景美術を加えた「設定資料集」と、黒星紅白先生の原案イラスト、宮原監督イメージボード、絵コンテ、動画、さらに完成台本までを収録した「プロダクションノート」の豪華2冊組み!これはもう買うっきゃない!

 

見る度に新しい発見があり、見る度に心に強く残る作品「ポッピンQ」

BD/DVDの発売6/2に控え、まだまだ今後の展開から目が離せない。

 

 

 

あなたはポッピンQをどう評価する?

 

まず、この記事を開いたあなた!そう、そこのあなた!

映画ポッピンQはご存知?既にご覧になった?

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数々の映画が大ヒットを記録した2016年、その年末に暴投スレスレのインハイに全力ストレートを投げ込んできたかたのような、このポッピンQという作品。自ら頭に当たりにいって、はや一ヶ月半。未だに、顔面にボールがめり込んだ状態にある。

黒星紅白氏によるキャラクターデザイン、3Dアニメ、ダンス、マスコットキャラ、異世界での冒険、アクション、少女達のほんの少しの成長、卒業...要素自体を一つ一つ分解していくと、幅広い層に向けて作られた作品なんだろうなと予想はできるが、実際に約95分の作品として出来上がったものは観ていてどこか不安があるモノになっていると感じた。いわゆる一般受けするような、安定感があり完成度が高いと言われている作品とは絶対に違う。でも、私は好きだ。大好きだ。作品から熱が伝わってくる。

そんな不思議な魅力を言葉ではうまく表現できないなと思いつつ、Twitterでは公開初日から、ちょこちょこと感想や考えをツイートし続けている。そして、全国で公開終了となる2/10に何か残しておきたいという気持ちから、今回ポッピンQに関する記事を書くことに決めた。

 

じゃあ私は何について、主に誰に向けて書こうかと考えた始めたが...作品紹介をするくらいなら公開されている動画や公式HP、各メディアから公開されている公式の記事をすすめるほうが手っ取り早い。

また、作品内容の解釈の仕方や感想、評論については、大量とまでは言わないが色々な視点から考察されているし、興行や広告面含めた総合評価(?)のようなものも散見される。そうして考えていった時に、ふと思い浮かんだのが「評価」「批評」についての記事。ポッピンQに限らず、作品鑑賞をする時の自分の前提条件のような、今まで頭には漠然としてあったモノを文字で整理してみたいという気持ちがわいてきて、今回はそれを一緒にまとめて記事にしてみたい。題して、あなたはポッピンQをどう評価する?

 

・評価っていったい何?

まずは言葉の定義から。”評価とは物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること。”(Wikipediaから引用)と定義されている。では、評価する上で注意する点は何か。それは「評価者に対する信用性」「評価方法に対する信用性」である。評価するものが定められた評価基準に対する知識を十分に持っていること、そして評価する際に主観が入らないようなシステムが必要である。

 

・芸術作品における評価とは?

一般的な評価という言葉を踏まえた上で、芸術作品における評価方法とは何かを考えていくとどうだろうか。評価者はいったい誰だろう?標準的な評価方法ってどんなものだろう?誰がその評価方法を決めたのだろう?...と様々な疑問が出てくると思う。その中で今回一つの例として考えていくのがポッピンQだが、まず娯楽作品として扱うのか芸術作品として扱うのか、それともまた別のくくりがあるのかを考える必要がある。そして、次の段階でも映画として扱うのか、アニメとして扱うのか、アニメ映画として扱うのか、それともメディアミックス展開する作品の一つとして見るのか...そう考え始めるとキリがないし、最終的には単純に比較できないよね?なんて極端な意見もでてくる。じゃあ、実際にはどんな方法で評価されているかというと

 

①興行収入や観客動員数等のビジネスの指標としての数字

②制作者側を評価するための〇〇賞

③鑑賞者による作品の内容に関する評論

そしてこの3つを踏まえた

④鑑賞者による全てを総合した評論

 

以上4つが普段わかりやすく目に見える形での評価ではないだろうか。※もちろんこれ以外にも評価をされている場面はあるだろうが、この分類で話をすすめていく。

 

・私が普段気になっていること

日常生活を送っている中で例えばテレビのニュースとして流れてくるのは①、②がメインである。また、コメンテーターによる評論とまではいかない感想だったりする。SNSを利用すれば、③や④もいくらでも情報として入手することができる。ただ、情報に溢れているため、誰が、どのような評価方法で、どういった意図で行ったのかがわからない、①~④の情報が入り混じった③か④らしきなモノもある。その上、何の意図も整理もされていない感想がさらに混ざり合って、評判という目に見えないものが形成されていくという認識だ。こんな状況のなかで、自分なりの評価軸を持って、自信を持って作品を評論をしている人ってどれくらいいるんだろう?っていうのが研究(?)テーマとして興味深くて、他人のレビュー、評価、評論について普段考えていたりする。

 

・③作品の内容に関する評論と④全てを総合した評論に対しての個人的な姿勢

先に書いておくが、感想、妄想、叩きと評論は別の行為である。(PV稼ぎのために、対立を煽った見出しをつけたり、デマやネガキャンを繰り返すまとめサイトは論外)

③他人の評論については、基本的には否定はしないし、新しい視点を提示してもらえるという自分にとって利益になるため歓迎したい。ただ、明らかに言葉の意味を取り違えていたり、推測の根拠がなく妄想になっている部分があったり、論理的に破綻している場合は首をかしげることはある。

④総合的な批評について。私自身、個人的な趣味として考えたり、先日Twitterでやった「自分が選ぶアニメベスト10」などの指標として使うのも基本的にはこれを基準にする。ただ、先述の通り明確な評価基準などが決められていない場面で、業界関係者ではない個人がこれをやる意義は自己満足以外にあまりないと考えている。※PVを稼ぐためにいかにも批評っぽい文章を書く人は多いだろうけど。

 

・具体例としてのポッピンQという作品

興行収入や観客動員数等のビジネスの指標としての数字

興行収入や観客動員数については、具体的にまだ公表されていないがヒットと言える状況でないのは諸々のデータから類推される。

制作者側を評価するための〇〇賞

〇〇映画賞、〇〇作品賞などを獲得したというのを聞いたことはない(実際に獲っていたらご指摘を頂きたい)

鑑賞者による作品の内容に関する評論

調べればいくらでもでてくるし、何か解答を提示することが今回の記事の趣旨ではない。私個人の評論はテーマごとに今後まとめて書くかもしれないし、書かないかもしれない。(Twitterでは断片的には書いている)もしも、今後ポッピンQを見る予定があって、その上でこの記事をここまで読んで下さった稀有な方がいらっしゃるのであれば、何もバイアスがかかっていない真っ白な状態でポッピンQという作品を鑑賞してみて欲しい。

鑑賞者による全てを総合した評論

評価の方法(評価する要素はどこなのか、各要素の傾斜配点はどうするのか、100点満点から減点していくのか、☆3を標準とした所から増減していくのか、他の作品との相対評価を考えるのか、そもそも数値化して比較するのか等々)が全く定まっていない状態では、何も論ずることはできない。では、仮に数値化できるとして各要素を100点満点で採点。自分の重視する要素を1.5倍計算(150点満点)とし、気にしない要素を0.5倍計算(50点満点)とする。そして合計点÷要素の数を総合点とする方式でポッピンQの一部分だけ抜き出して評価してみる。

 

・ストーリー 100点 ・キャラクター 100点 ・ダンス 100点 ・興行収入 20点

・金丸Pの頑張り 100点 ・宮原監督の笑顔 150点  総合点  99点

 

これまで長々と読んで頂いた方の中には「何つまんないボケをいれてんだよ!スベってるぞ!」って思われた方もいるかと思う...ごめんなさい、でもこれが私の評価なのはマジなんだ。これまで真面目に書いてきたし、客観的になるように意識してきた部分もあるけど、今回何が言いたいかっていうと基準を明確にして揃えようとしなければ、いくら客観的に努めようとしてもどうやったって主観は排除できないということなのだ。

④っぽいポッピンQの評論をかなりの数を見てきた自負があるが、誰かこの基準を揃えようと思った人はいるだろうか。いや、絶対にいない、やろうとしても他の人がその基準に従って評価を進める妥当性が全く無いからだ。そもそも、この記事を書いている私自身に「評価者としての信用性」があるかないかは、いったい誰がどうやって評価するのだろうか。

 

・優れた映画っていうのはなんだろうか?

公開初日から今日に至るまで、毎日のようにポッピンQで感想も検索していて世間の評価のされ方は把握している方だと思う。公開当初に流れてきた感想で多かったのを自分の観測範囲分だけでざっくりとまとめると「誰に向けて作られた作品なのかわからなかった、ストーリーは駆け足で、個人のキャラクターの心情は主人公以外は特に描写不足、展開はご都合。テレビシリーズで丁寧に時間をかけてやってもらったら良かったのに」っていう感じだと思う。最後の一文があるだけでまたポジティブな方である。

これらの評価は一つの評価基準からみると非常に的確な批評だと思うし、先に述べているように否定をするために書いたわけでもない。ただ、その評価基準ってなんだろう?って考えていくと、「約95分という限られた尺の中で、過不足無くストーリーの展開とキャラクターの心理を描き、本題であるテーマを初見でだれでも理解できるような形でサービス提供をすべきだったのに、要素を盛り込み過ぎてしまってバランスが非常に悪くなっているから、自分が思い描いている映画の理想系を100点としたところから減点をしていきました」という印象を受けた。(※あくまで勝手な偏見)そして自分自身も初見の時に少なからず感じてしまった部分でもある。じゃあ優れた映画っていうのはなんだろうか?明確に一つの解答がある問いなんだろうか。

 

・ポッピンQの魅力

ポッピンQの魅力は、徐々にではあるが口コミで広がっていて、ポッピンQで検索をすると、どこが好きか、どこが面白いかを連日語る人が増えているように感じるのは私だけではないはずだ。根拠となる部分は割愛するが、「ポッピンQは純文学である」といい続けている加藤氏の言葉、ポッピン・ドロップを読んでから2回目を観ると全然違った風に見える、見る度にどんどん違う見え方が増えてくる、考えれば考えるほど新しい疑問が湧いて来る...等々とにかく徐々に面白さに気づいていくような遅効性のモノなのかもしれない。

そして、もちろん初見の時から感動して泣いてしまったという人も少なからずいる。そういう方は作中では明確な描写はないが、細かい部分から自分自身で余白を埋めることが出来たという感受性に豊んだ人なのだ。私自身は、恥ずかしながら初見の時には見逃している部分が非常に多く、ポッピン・ドロップを読んでからの2回目が一番の衝撃が走った。ポッピンQは映画内では全てを描ききってはいない、明確な解決策を持って帰るのではない、ショーダンスではなく祈りや舞、あくまで自分自身との対話...そうか、なるほどと段々と腑に落ちるところが増えていった。そして、魅力を感じる部分は人それぞれ違う、多面的な作品なのだ。そして、その要素はいっぱいに詰まっている。

私は作品鑑賞をする際、どうしてもストーリーや物語の構成から入ってしまい、その作り方の評価から入ってしまう。そして、私と同じような人は年齢を重ねるごとに、様々な作品に触れるにつれて成長(別の視点からすると退化)してしまうのではないか。

ポッピンQは子供も気軽に楽しめるわかりやすい王道のエンタメ作品でありがながら、物語を読みといていく楽しさも味わえる文学作品でもある。というのが持論である。どちらか一方が正しい見方だとは思わない。

 

 ※もしまだポッピン・ドロップを読んでない方がいたら、すぐにでもポチって欲しい 

 本編だけではいまいち描写が足りなくてわからなかった...という方にこそオススメ

 

・おわりに

想定以上に長々と書いてしまったし、無駄に面倒に書いてしまった感じもするが、こんなに分解してみなくても、届く人には最初からストレートに届く作品なのだ。作中の言葉を引用するなら、「だって世界はシンプルなんだから」本当にその通りだ。ストレートに届かなかった人が多かったのは、今の時代に流行している作品の作り方をなぞっていないからだと思う。だからこそ受け取る側は混乱してしまった、その混乱状態から早く復帰したくて、バッサリと切ってしまった人が多かったのではなかろうか。そこに読解力という能力の優劣や、善悪はないと思う。

映画ポッピンQの上映はひとまず終了してしまったが、何よりポッピンQの世界はまだまだ終わっていない。宮原直樹監督の頭の中で、壮大なスケールの世界が存在している。その上で一度でもポッピンQを観た人達に、公開最終日に、最後に改めて問いかけてみたいと思う。

 

 

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