映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』感想~それぞれのヒビオル~

 2018年2月15日、映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』の試写会に幸運にも参加することができ、一足先にこの世界に触れることとなりました。その圧倒的な美術と登場人物たちのそれぞれの人生を、約120分という短い時間に圧縮したような膨大な情報量を受け取ってしまい...鑑賞後は何とか息を吐き出すのが精一杯というような状態でした。

作品の出来の良さについてはもう触れる必要はありません。何が描かれていたか、それを鑑賞した自分は何を感じたか、そこから普段の生活に何かを持って帰るのか。まだまだ言葉にできないことが多いけど、この記事を書くことで公開後に2回目を見る時までに少しでも整理した状態でいければ...そんなことを考えてます。

 

予告編↓

www.youtube.com

 

公式サイト↓

shttps://www.youtube.com/watch?time_continue=1&v=JHwkaoRq26Mayoasa.jp

 

 

以下ネタバレ有り

 

 

 

全体の感想

この作品について他の人と語りあおうとする時、まず何から話そうかという状態に自分は少し悩んでしまったけれど、おそらく同じような人は多いのではないでしょうか。まずその理由から考えていたのだけれど、とある短い時期の1イベントを描いたのではなく、少なくとも何十年という時間の流れがあるからで。まず、それが縦糸。人間と異なる存在との接触、出会いと別れ、人間の生死、(母)親と子の関係...あらゆる人間の営みは横糸。公式サイトのストーリー紹介の冒頭に「縦糸は流れ行く月日、横糸は人のなりわい」とあるように、映画を観終わった後にこのフレーズをみると本当にその通りですし、答え(?)は隠さずに最初から出してあります。だから実はこんなテーマが隠されていたのでは?とかって話始めるわけではなく、まずどんなお話だったのかは多くの人に非常に伝わりやすい形だなぁと。そして横糸として描かれているのは何もこの作品に限った特殊なことではなく、あらゆる作品で描かれている普遍的なテーマだったとも思います。

 一つ一つ分解していくと「あっ、この要素はAのゲームで」「この要素はBの小説で」「これはCのアニメで」というようなる方は多いんじゃないんでしょうか。様々なメディアでファンタジーの世界に触れてきた自分みたいな人間としてはこれはどこかで...となる場面が多かったのですが、それが特定の過去作の何らかのオマージュとかそういうわけではなく、この「さよ朝」で描かれているのは基礎の基礎というところをしっかりと詰め込んで描いているから、むしろ逆の存在になり得るのだというように考えが至りました。もしかすると例えば10代の少年少女達がこの作品にファンタジーの入口として触れた時に、この作品こそが彼らの基礎になりうる程の強度がある作品なのかと思ってしまうくらいです。作品に出会う時期、それまでに蓄えてきた知識と経験によって感じることは全然違うので、色んな人の感想を読んでみたいですね。

 

 

 

と、ここまで真面目に文章を書こうと頑張ったんですけど、ちょっと疲れてきたのでここからは箇条書きに近い形で、てきとーに感じたことや思いついたことをつらつらと書いていこうと思います。2回目を鑑賞した後に修正したりまとめたり、新しい記事とするかはまだ決めてないですが気分でやっていこうと思います。

 

・ヒビオル

これは「日々織る」からとった造語かな。作中で頻出する単語であらゆる場面で複数の意味を持つ言葉として使われている。日本語に翻訳しようとした時に、それに対応する一語で綺麗に言い換えができる言葉ではない。日記、記憶、歴史、人生の一部、言葉でもあるし人間からしたら高価な布である。無理やりまとめると縦糸と横糸で織られたあらゆるモノとかになるのかな?

縦糸と横糸っていうので思い浮かぶのは中島みゆきの「糸」だったり、最近だとプリティーリズム・レインボーライブのいとちゃん関連のお話だったが、もう少し辿ると大学生の頃に仏教関連の本を読んで説話みたいなので経緯という言葉について見た時だったような気もするし明確ではない。

この作品におけるヒビオルはヒビオルとしか表現できない。この物語にはたくさんのヒビオルが描かれているが、マキアのヒビオルとエリアルのヒビオルが中心だ。二人が出会ってからラストシーンまでの時間でいうとエリアルのヒビオルとも言えるし、そのエリアルのヒビオルがマキアのヒビオルの横糸になる物語でもある。というより自分のヒビオルは他人のヒビオルが横糸となっているし、自分自身もだれかの横糸になっている。壮大な話だ。感動という単語を作品の修飾語として使うのは苦手な自分だが「一大感動巨編」と言う理由というか想いはわかる。

 

・イオルフ

ヒビオルをはじめ用語がたくさんでてくる作品だけど、日本語から音をとっているような感じがしてすっと入ってくる。衣織る布?衣織る夫?とかかな。イとフの間に畏怖をいれたり、ifという意味かもしれない。正解とかはどうでもよいただの妄想ではあるけど、とにかく頭の中に文字を浮かべなくても音として入ってくる。パルスのファルシのルシがコクーンでパージする人は少ないでしょう、良かった良かった。

 

レナト

これが初見の時の一番のひっかかりでうまく言語化できていない。レナトで調べてみると、なんとなくrebornあたりから引っ張ってきたのかなという推測になる。ただ仮にそれが正しいとして生まれ変わる、再生するということがこの作品のどことどうつなげるかはまだ。2回目鑑賞するときの課題だ。

 

・宗教と国家

いわゆる中世ファンタジーっぽい作品だと、人々の思想の根幹として宗教を登場させることは王道の手法だけど、この作品にはというよりメザーテには見あたらなかったように思えた(見落としかも)。攻めてきた国にはあるのかも。代わりにという言い方は変だが、架空の高次の存在としての神ではなくイオルフやレナトが存在しているからこそそれが対象になっているのかも。しかもそれは手が届かない存在ではない。

とにもかくにも人の営みを善い?部分も悪い?部分も丁寧に描いていた。どのキャラクターの行動にも納得(同意、共感とかではなく)というか、仕方ないというか諦念というのか。自分もそういう時期あった(現在進行形でも)、そんな環境にいてそんな状況になったらそうなってもしょうがないよねという描き方が上手い。と自分は感じたけれど、特定のキャラクターに感情移入して観るタイプの人はどうなのだろう?自分が比較的そういうタイプでもないので想像の話になるが、メザーテが崩壊したことで多少溜飲が下がったみたいなのがあるのかな。因果応報でもないけどスッキリ感が必要な人もいると思うし。そういう意味でも上手いのかな。ただ、イゾルは人によっては相当怒りを溜め込みそうとふと思った。

レイリアを救出する時に国旗を縦に引き裂くシーンがあったと思うんだけど、あそこが何故か印象的だった。冒頭、里の生活でレイリアが飛び降りるシーンがあったけど、身体能力の高さっていうのを思い出させてくれたし、アクションでお~っともなったんだけどそういうことだけじゃなくて。布を縦方向に裁つってのは横糸を裁つわけで...モノでも人間関係でも国家でも、作るのは労力と時間が必要だけど壊れる時は一瞬だよなーとか儚さと愚かさみたいなのを勝手に感じた。

 

・出会いと別れ

突如襲撃されて意図せぬ別れをするところから始まる。その先でマキアはエリアルをはじめたくさんの人々と出会う。愛犬との別れ。救出に向かうため自分の意思で別れる。住む場所が変わったことで自分の中にいた新たな自分と出会う...物語序盤を思い出すだけでも色々な出会いと別れの形を描いている。そして数々の出会いと別れを繰り返したラストシーンで、だれも愛してはいけないよと長老に言われていたマキアが「愛して、よかった」という言葉を口に出す物語でもある。出会いと別れはセット、イオルフの民は(出会いと)別れの一族か。

 

・母性

色々な種類の母、母と子の関係を描いている。母というのは血縁だけでもない、逆に触れる機会がなくても血がつながっていること、父親が不在の母。試写会後に感想ボードをばーっと見たとき母は強い!と簡潔にまとめてるのがいくつかあって。自分の感覚としては鑑賞直後の感想としてすごいまとめ!と感じたのを思い出した。否定するわけじゃなくてそれが着想になったって話なんだけど、母性ってのはどの程度が先天的(生物的?)なもので、どの程度が後天的に獲得する、そうあろうとすることで得られていくものなのだろうって。いや、もちろん個人差はあるって結論なんだけど。現実に持ち帰ってくると、シングルファザーだったり、養子だったり、そういう関係ではないけど特定のコミュニティにおいて母という存在はいる。まだまとまらないから、みーんながだれかの母ということにしておこう。

 

・タイトル「さよならの朝に約束の花を飾ろう」

タイトルにするくらい大事な言葉なのに、これがまだうまくしっくりきていない。前半のさよならの朝ってのはラストのエリアルとの別れだろう。「約束の花」これが多分見落としがある。劇中でマキアとエリアルの中で約束という単語は何度か使われていて、マキアがお母さんは泣かないというのも、エリアルが守るというのも約束であったはず。約束ってのは大事だし素敵なことだけど、約束を交わした両者自身も変化していくしとりまく状況が変わっているのにも関わらず約束を守ることを一番大事にしてしまうと、もっと大事なことを見落とすこともある。イゾルの忠誠なんかもこれか。臨機応変に約束をしなおすのも必要な時もあるかも...と話が脱線していったが、あとは花。マキアが最後に胸に飾った3つ?の花...レナトとイオルフともう一つ、夜に咲く花?だっけあれ関係あんのかな...次は集中して見落とさないようにしよう。

 

 

読み返してみるといつもに増して適当な記事になったが、書いてるうちに整理できたとこがあって良かった。とりあえずまとめなんですが、映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』は思考の種になることはたくさんあるので、宣伝でたくさん目に入る「一大感動巨編」かどうかはわからないし、この記事を読んでくださってるあなたが面白いと思ったかはそんなのわからないけれども、「巨編」であるとは言っても良いと思いました!(これが書きたかった)

 

それでは公開初日、2回目の鑑賞に行ってきますね。

2017年12月23日の思考

この記事を開いて下さった物好きな皆様、まずは本当にありがとうございます。まず始めに今日の文章を書くに至った理由とか、どういう風に文章を進めていこうかみたいなことを書いていきたいと思います。この記事全体の構成だったり、そもそも改行をする気すらありません。現在の思考をそのまま文字にしていこうみたいな感じで。文体もいつもTwitterでやってることを文字数制限無し、区切り無しでやってみようみたいなそんな感じです。そして、僕と電話だったり直接会って話をしたことがあるひとなら、まぁ音声が再生されるだろうなーみたいな感じのゆるい感じでやっていきます。なので、僕自身(の思考)に興味がない方はもうこの辺りでページを閉じて頂くことをオススメします。いや、もう言われなくても閉じてる人は閉じてると思うんで、最終確認みたいな、これ以降読み進めた後に、なんの価値もないよこの文章とか言われても「あっ、そうですか」としか回答できないですよってことを先に伝えておくよってことっすね。あー、敬語にしようか、タメ口にしようかちょっと考えますね。うん、自分よりも5歳くらい上のネットで知り合った仲の良い人に話しかける感じにしよう。なんかそれが一番自然に話せる気がする。そう、これは文章ってよりかは会話に近いのかな、自分の思考をそのまま相手に垂れ流していく、入り込んでいくみたいな。入り込んでいくはちょっと気持ち悪いっすね。で、何の話を今日しようかっていうと、ポッピンQ一周年おめでとうございますってやつなんですよ!でー、これまでもちょこちょこ想いをTwitterで垂れ流してたり、記事にしてみたりしているので、今日は何をテーマにしようかなって考えていたんですね。一応候補としては「ポッピンQと私の一年を振り返る」とか、「ポッピンQの良いところを簡潔に3つ挙げる」とか、去年書いた「評価」についての記事を改めて書いてみるとか、「ポッピンQから得たもの、そこから思考したもの」みたいなのをいくつか考えて。でー、なんかもう考えてたら気合入れて文章書くにはちょっと体力がなくて、いや気力?エネルギー?がちょっと今なくて。じゃーもう全部ごちゃ混ぜにして思考垂れ流しでよくね?って感じになって今に至るわけです。よし、じゃあそろそろポッピンQの話します?勝手にしますね。まず、この一年振り返ると思ってたよりたくさんのイベント参加してきたなって驚きましたね。そもそも、こんなイベントあったんだっていうこともだけど。いやもう、すごい、すごすぎる。この一年、幾度と無く何で自分はこんなにポッピンQが刺さってしまったのかって考えていたんですけど、明確な答えはやっぱり出なくて、明確な答えがでないからこそずーっと自分の中でひっかかってるんだろうっていうのが答えといえば答えかもしんないすけど。似たような話だと去年書いた記事では、顔面にボールがめりこんでるなんて書いた記憶がありますね。一年前の自分なかなかやるなって自画自賛しておきますね。で、これはずっと思ってることの一つではあるんですけど、あまりにも出来が良くて綺麗にまとまってて気持ちよく感動して終わった作品っていくつもあるんですけど、それで自分の中で終わりになっちゃうやつがある感覚というか。よし!じゃあ次の作品いってみよーってなってしまうっていうか。早合点しないで欲しいんですけど、じゃあポッピンQが出来が良くなかったかっていうとそんなことは言ってなくて。むしろ要素としてはめちゃめちゃ出来が良いように自分では思える。ってかこれは去年書いた記事でめちゃめちゃ遠まわしに書いてるけど、出来が良いってなんだよっていう。面白い、自分に合うみたいなのはもう完全に自分の感想なので割とどーでも良い概念なんだけど、出来が良いなんて言うのはもうある程度そのジャンルに精通しているというか知識、技術、経験に裏付けがないと価値があんまない言葉だと思うんだけどどーなんすかね。いやまぁネタ?みたいな感じで言ってるんであれば、そこにツッコミいれるのは野暮だなとは思うんです。この野暮助!って天花寺って言われたいなー、あっスタミュの話です。でも、マジで自信過剰というか、どれどれオレ様がこの作品を評価してやるから見せてみなさい的なオーラで文章書いてる人って結構いますよね、なんか勝手に頑固なおっさんのイメージもあるし、20歳くらいの自信満々?な暇な大学生とかのイメージなんですけど。(これ、後者は過去の自分なので自分の知り合いの人はスルーしてもらえると嬉しいっす)で、なんの話してたっけ。あー、そう出来が良いってのは何かって話です。この言葉の定義をちょっと自分なりに考えてみたんですけど、「現在、多くの人に妥当とされている評価基準にそって評価した時に高い点数をつけられるもの」って感じなのかなと。これが正しいんだって主張じゃなくて、今日こんな感じに思ってるよ、あなたはどう思います?くらいの話なので、こういう話したときにすぐ怒んないで欲しいです。また、話が逸れたな。で、ポッピンQがどうかって話なんですけど、自分の中にいるこれまで結構な数の作品に触れてきた感覚からすると、まぁ高い点数をつけられない人がいるのも妥当だなって正直言って思う要素もあります。ただ、それは要素の話ではあるし、自分自身の培ってきた経験や感覚から判断したところによるものです。つまり、こういう時って自分自身の経験や感覚が邪魔してるってことでもあって、あとなんだろ、そもそもその評価基準や項目自体合ってんの?みたいな話ですよね。だから、ポッピンQ見たあと色々とまた思考がはかどったわけなんですけど、そういう意味で自分にとって価値がある作品だったなぁと思うんです。そう、これは次の話なんですけど、一般市民が作品の評価をする意味ってどんくらいあんのかなーってやつなんですよね。昔は、自分自身80点とか☆4とかめちゃめちゃ真面目に評価基準作って、公平に、出来る限り客観的にーみたいなことを考えてブログやってた時もあるんですけど。もう15年くらい前の話か、なつかしすぎる。それも趣味っていうか「公平に評価してやるゲーム」としては面白いところがあるのは間違いないんだけど、あー、これは製作者から隠れてひっそりとやるもんかなってなんかふと思った時があって、いや、現在進行形でやってる方を批判する意図は全くないです。そう、自分が明日やべーそのゲーム面白いなってやってる可能性すらありますからね。というか、あんまりそんな親しくない他人の行動に干渉する気が無いです。で、今の自分が大事にしてる感覚が何かなって考えてたら、その作品を思考の種にして何を考えたかとか何か持ってこられたかとかそういうとこかなって。で、何度もしつこくいうけど、これが至上の鑑賞スタイルなんていうつもりは全くなくて、あくまで今日、今この瞬間そうかも?くらいに思ってるだけなんですよ。なんか頭の固い人って、強い主張を強く持ちすぎなことあるなーって感じるとこがあって、現実世界で何か選択や行動を迫られている時はまー自分もそうなることはありますけど、思考段階においてはなるべくフラットでいたいっていうか、ぐにゃぐにゃした感じってか何にでもなれるスライム状のなんかみたいになりたいって感じなのかな。そういう考えがそもそもベースにあるんで、なんでも二者択一にしてあなたはどっち派閥?!とか真面目に聞いてくんのはちょっと困るときあるんですよね。いや、ネタでやるのはまぁいいしノるけど。真面目にぶつけられると、そもそも試験で例えるならそれ設問自体が間違ってるとかちょっと悪問じゃないですかみたいな感覚。そんなに一貫性を求めすぎるのも身体に毒というか、政治家とかだったら表に出してる態度は一貫性があったほうが説得力あるってのはまぁ感覚としてはある。んだけど、それでも以前と主張を変えても全然おっけーだとは思いますし、それを許される世界であっても良いと思います。あんまりコロコロ毎日かわってたらやべーやつだから、適度にって感じですけど。そー、なんかネットだと特に顕著な感じがするんだけど、反論する時に極端な例をか考えを持ち出してきて、こういう反例が存在するからその理論は間違い!オレの勝ちだ!みたいな人いて、なんか見てて和む時ありますね。極端ですし、一貫性を求めすぎというか潔癖と言い換えてもいいんですけど、そういうのちょっと思考段階においてはあぶねーなって思いながら生きてたりします。で、ほんと何の話してたっけ。そう、ポッピンQの話なんですけど、もうこれ感覚的な話なんで共感されるとも思っていないんですけど、何か現代の映画評論評価基準じゃ計れない異物みたいな感じなんですよね自分の中で。そして、自分はポッピンQから評価、SNSの使い方の指針、興行と作品の内容の関連性とか挙げ始めたら切りがないくらい思考の種になるものをもらってて。それに加えて、ポッピンQがきっかけで交流があった人、1年経った今でも交流が続いてるひと、この人をは今後も長くつきあいたいなーと思う人ができたし。今まで、0から1を生み出すような行為は自分は向いてないからやらないなーとか考えてた小説かいたりとかもしてみたり、そういう側面でもめちゃめちゃ大事な作品になりましたね。そう、だから何が言いたかったかっていうと、自分は映画評論家でも何でもないただの一般市民なので、作品のできがどうだったかみたいな研究者?の道はちょっと今は一休みしてる感じっすね。いや、出来が良い悪いとは別に構造分析とかの研究はしていると思うのでなんか違うか。まぁいいや。で、じゃあそろそろ一番書こうと思ってたポッピンQの好きな所を書いていきますね、仲良い人にはもう散々言ってるからなんか忘れてたけど、文章には全然してなかったなーと思って。まず一つ目なんだけど、ポッピンQの勇気のダンスですね。正直初見の時良く分かんなくて、マスターしたら台座の四隅みたいなのが光ったのとか、コロシアムで「超えた!」っていうセリフもマジよくわかんねーなと思ってたんです。え?!みたいにちょっと置いてかれましたね。で、年明けの二回目の謎イベント(神主さんを読んでみんなでヒット祈願するっていうアレ)で見た時に、あっ!!勇気って言葉はそういうことかーーーーってなんか一人で腑に落ちて。自分は言葉を大切にしてるって良く言ってるんですけど、だからなんでこの言葉を製作者の人は選んだんだろうと考えることが良くあって。あれが「確信」のダンスとか「蛮勇」のダンスとかだったら全然違うわって。彼女達は日常生活の中で悩みを抱えていたわけだけど、その悩みの解決方法が全然わからないでいて。でも、時の谷の生活を経て同じ悩みを共有したしました、特にあの夜のシーンですけど。その共有した部分は悩みの内容ではなくて、悩んでいることだったり解決策がよくわからないでいることで。だから時の谷にいる間に明確な解決方法が見つかったとかそういうのではなくて、自分自身と向き合う心構えができた、でもその心構えってのは強い信念があるとか解決できる確実性が見えているとかじゃなくて、そうじゃないからこそ「勇気」って言葉を使ってるのかよーーーってかぁああああって唸ったわけなんですけど、ここまで自分の妄想ではあるので話半分に聞いてもらって大丈夫です。だから自分にとってはすごくわかりづらいところで、わかりやすく書き換えるならば、そういうことをセリフに組み込んじゃったりするわけだけど、かなりバッサリ切られてるからこう自分で読んでいったらそうなったとかそういうだけです。違います、そんな意図は無かったですって製作側の人に言われる可能性が非常に高いところだけど、それはそれ、これはこれで、どういう意図で作ったかっていう話と、自分自身が作品から何を得たかはつながらなくても良いというか、別であって当然と思ってて。だって、だったらその意図を言葉で全部説明したら良いわけで、言葉を使わないで表現するんであったら、できあがったものが全てだから。そして、製作者側をリスペクトする気持ちともまた全然別の話ですね。なんか、ネット上でみられる議論??未満の話っていろんな話をごちゃまぜにして混沌としてるなって良く思います。あ、話が逸れた。で!二つ目なんだけど、さっきちょっと触れた「悩み」の小ささだったり、すーーーぐわかりあっちゃう中学生??らしさみたいなのがめちゃめちゃ良いですね。あの悩みって、自分をはじめ大人なら解決の指針がまぁ立てられるでしょうというような悩みだと思います。でも、あの頃の自分を振り返ってみると今考えるとすげーー簡単な問題でもめちゃめちゃ難問に見えたし、解決の糸口が本当に見えなくて誇張じゃないくらい人生詰んでる...くらい思い悩むことが結構あったなーって。これはもう個人の経験によるところが多いから、いや、自分は特に悩まずに生きてきたよって人とか、挫折と言う挫折がなかった人とか、こんな子供じゃなかったよって人はたくさんいると思うんですね。で、そこの時点で自分は疑いを持ってるって言うか、なかなか自分の中学生のときの感覚って、歳をとるごとに忘れてしまってて、記憶の修正がかかってるなとたまに気づく瞬間があるので、悩んでたこと自体を忘れてるかもなーってのも思って。そういう所に気づかせてくれたのでおーーってなりましたね。特に伊純ちゃんの嘘が絶妙だなってやっぱ思います。この作品に限らずなんだけど、自分は男児ホビーアニメだったり女児向けといわれてる作品も良くみてて、その感想で〇〇歳はこんなに子供じゃない、こんなに大人じゃない、リアリティが無いみたいなのに遭遇するんですけど、これやっぱ正解ないってか、観てる人の世界の見え方だなーおもろ。この人どんな背景があってどんな生き方してきたんだろってなりますね。もっと強いのだと「子供を舐めてる」みたいなの文字をみたりするんだけど、舐めるって面白いっすよね。消費者を舐めてるとか、ファンを舐めてるとか、どんだけ舐めまれてんだろ、唾液まみれじゃないですかあなた!ってツッコミをちょっと考えて自分で笑いました。やべーよ。で、ここで三つめなんですけど、めちゃめちゃ都合の良いところですね。またちょっと怒らないで聞いて欲しいんですけど、一見すると都合の良い展開に見えるところってことです。初見で直後の感想を思い出すと、女子5人の物語としては一段落してよかったなー思ってたよりも対象年齢低めに向けてわかりやすくつくられたのかなー好きだなー、ちっちゃいこに絵本みたいに読んでほしいなーみたいにちょっと侮ってみてたとこがあったんですけど、ちょっと時間が経った後に、あっちょっと待ってこれ単に主人公達にとって都合が良い展開が続くなーって思ってたけど、これレノかジンバットかさらにその上位の存在か知らんけど、都合よく進むように準備されてただけの話でもあるなーと思って。作品をさらっと読む人はあー良かったねでも追われるし、ちょっと考えたいなーって人にとっては余白があるってか、色んな楽しみ方がある出来上がりになってるなって。どっちかが正しい視聴方法みたいなのはなくて、だからこそすごいなーと。これが製作者側が意図したものなのか、意図してないけどつくってみたらこんなものができあがったってのはもう永遠のテーマだと思ってるんですけど、どっちなんだろうなーとか考えるのも楽しいですね。だから、なんだろなんかこれはめちゃめちゃ計算されてつくられた素晴らしい作品だからそれに気づかないヤツは浅く読んでて甘いみたいなのとはちょっとちがうなーって感じ。続編があるのかわからないけれども、それがうまく回収されたらうわーーーすげぇってなるかもしれない...けど、実はそうでもないのかもしれない、いや、もうどっちでも良いからちょっと教えて欲しいなってのはありますね。教えてもらえないなら自分自身でもうちょっと考えてみます、いやもう実は既に考えて小説を書いてしまってるんですけど。そうそう、冬コミ2日目東O28bでジンバットがメインの本を出す予定です。宜しくお願いします。そろそろ文章書くの疲れてきたので終わろうかなーって気分になってきました。ここまでじっくり読んでくれた方がどれだけいるんですかね、自分が仲良い人には読んで感想くれくれってやるかもしれないんだけど、これ書きながら、うわっこんな文章書く行為めちゃめちゃキモっていう自覚はもちろんあるので恥ずかしいって気持ちも少なからずあるけど、恥ずかしいことを言うのはもうほんとなれてしまっていて、これ大人になったってことなんですよね多分。そう思いたい。なんか10年くらい前にとあるお姉さんに言われた言葉が未だに覚えてるんだけど、もうちょっとしたら厚顔無恥な人に自然となっていくよってニュアンスのことがあって。うっわー予言だこれと思ってるんですけど。ほんとそうですね、恥ずかしいいう気持ちは持ちつつも恥ずかしい行動をとれるというか、他人の目が昔ほど気にならなくなってるというか、この他人という言葉が明確になっている感じですかね。自分を大事に思ってくれるひととか、そもそも自分視点で自分の人生に関係している人ってそんな多くないんですよね、ネットやってるとたまに忘れるんですけど。だから、そんなごく一部の人に大きく誤解されなければ、割とその他の人にどう見られるかって割と大きい問題ではないよなーとか。もちろん、他人に失礼なことをするとか社会的に問題がある迷惑行為をするってことではないっす、ってかなんでネットで文章を書く時ってこんなエクスキューズってか前置きかかないといけないんすかね。おこです。なんか受け取り方が極端な人おおくないですか。どれだけの人数がいたら多いかわからないので目に付くだけかもしれないけど。なんか脱線してきた気がするからまとめに入ります。ポッピンQ1周年本当におめでとうございます。自分はもうポッピンQが社会的にどう評価されてるかとかは割りとどうでも良くて、自分が大事な作品だと思うことだけが大事だと思ってます。すぐに続編や新作がでるかもしれないし、同じ東映アニメーション製作で自分がずーーーっと大事に思ってた明日のナージャみたいに急に小説がでるとかかもしれないし、もうこれで公式からの動きは終わってしまうかもしれない。それはもう自分一人の行動で動かせる域を超えてしまっているので、自分は自分のやり方でながーく愛していきたいと思います。それこそポッピンQのダンスが他人に見せるためのショーダンスでは無く「祈り」をこめた舞いであったように、自分自身を信じて自分のできることをやって奇跡が起きたように。どんな形でも、またあの世界の続きが見られる日をずーーーっと待ち続けています。以上です。

映画『きみの声をとどけたい』感想~「コトダマ」の力と呪い~

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 2017年8月25日。夏の終わりのその日「きみの声をとどけたい」という映画が公開されたのをご存知だろうか?大掛かりな宣伝をうった大作映画や話題の映画が多く公開されているこの時期、一つの名作がひっそりとこの世に生み出されていた。湘南の風が吹き抜けていくような爽快感、観た人の心に「声」や「言葉」の力について優しく問いかけてくれるような暖かさが感じられる作品という印象だった。そして何より、この作品の素晴らしさを自分の声でとどけたいという気持ちになる作品だった。

 

 

きみの声をとどけたい」ってどんな作品?

 

①.キミコエ・オーディション

一般的な作品の感想の場合まずはあらすじから書くところだが、この作品にあたってはキミコエ・オーディションの存在を避けることはできないと思う。

kimikoe.com

キミコエ・オーディションの詳細は上記のサイトに載っているため一読して頂くのが一番早いが、お忙しい方のために簡潔にまとめるとオーディション合格者には

  • CSファミリー劇場でのメイン番組出演
  • 声優事務所オフィスPACへの所属
  • ランティスよりCDデビュー
  • オーディション期間中に映像テクノアカデミアにて、プロの講師陣によるレッスンを受講
  • 2017年夏公開の劇場アニメーション作品にメインキャストとしてデビュー

という声優を目指す方にとっては非常に魅力的な特典のついたオーディション企画であり、ドキュメンタリー番組の作成(オーディション自体)、新人声優育成、歌手ユニットプロデュースを目的とした総合的なプロジェクトであり、その一環として「きみの声をとどけたい」という作品が存在しているのだ。こういったことから、映画単体の出来の良さ?を評価する評論家の方とプロジェクト全体を通しての意見を書いている方が混在しているということを覚えて頂けると、また一つ見え方が変わってくると思う。

 

※ここまで読んでオーディション自体に興味を持った方は、まずこちらの動画を。

それぞれ3分30秒程度の動画が全11回で公開されている。

www.youtube.com

 

②.あらすじ

あらすじについては公式サイトのstoryに全てがつまっている。kimikoe.com

 

そして本予告も公開されているが、何も前情報を入れずに観に行きたいという方は

こちらの動画はスルーして劇場に向かうことをオススメする。

www.youtube.com

 

多少のネタバレを許容してもどんな雰囲気か知りたいという方はこのミュージックビデオもオススメ。キミコエ・オーディションの合格者で、メインキャスト6人の声優もつとめたユニット「NOW ON AIR」が歌うED曲と特別映像。爽快感に溢れた名曲。

 

gyao.yahoo.co.jp

 

 

以下本編ネタバレありの感想

 

 

①「コトダマ」はなんでカタカナ??

  まず「コトダマ」という言葉を耳で聞いたとき、自分の脳内で変換されるのは「言霊」という文字だ。言霊という言葉についての理解度と印象は鑑賞者ごとに異なるものであり、日本に古来から根付く言霊的思想、そして言霊学の知識がどれだけ認知されているものかは誰にもわからない。そんな中で、日常生活でコトダマという音を聞いた時に一般的に共有されている認識は「言葉には力がある」「願いを口にすると叶う」「悪いことを言うと本人に返ってくる」というくらいだと想像している。そして、それはどこかオカルトでスピリチュアルで胡散臭い印象を持つ人も多いのではないだろうか。

 さて、話を「きみの声をとどけたい」に戻すが、この作品における「コトダマ」のスタート地点は主人公・なぎさの祖母が「コトダマって言ってね。」というセリフにある。ただ、その言葉を聞いた幼いなぎさは「コトダマ」という耳から声で聞いた言葉をどこまで理解したのだろうか。そして、コトダマのことを教えた祖母自身が、コトダマという言葉の持つ意味をどれだけ理解をした上で発言したのかは想像するしかない。こういったことを踏まえて、学術的、歴史的な背景を持つ「言霊」という言葉とこの作品における「コトダマ」という言葉は違っていて、なおかつ文字によって伝えられた情報ではなく祖母の声としてなぎさの耳に、心に届いた言葉であると私は考えた。

 

②主人公・行合 なぎさ

 なぎさというキャラクターの理解はかなり難しくて興味深いなというのが初見の時の印象だった。鐘を鳴らして叫ぶ、不法侵入をしてラジオの真似事までする、紫音から届いたメールに対するリアクション等々、良識をもった高校2年の女子高生とは言えない。蛙と会話をしたりコトダマが見えるという不思議ちゃん?っぽさ、初めて紫音と出会った時や夕と二人で会話する時、終盤紫音と言い合いになった後と叫ぶように泣く。うまく言葉にできない想いを抱えていて、ラジオの真似事をするシーンでは将来のことや友人関係にも疲れていますという言葉を口にする。

 なぎさのキャラクターを考える上で大事なのはもちろん「コトダマ」を信じているということだ。ただ、この「コトダマ」を信じているからこそ、悪いことを口にしたり、相手が前にいる時にはマイナスな感情を伝えることに対して臆病になっている、恐怖を感じているという印象を受けた。これは、きつい表現をすれば祖母から幼いころにかけられた「呪い」とも言えるのではないだろうか。生きていると負の感情を抱くことはいくらでもあるし、その時に口にだせない、愚痴も弱音も吐けないということはストレスを一人で抱え込んでしまう原因にもなる。

 

③矢沢 紫音

 紫音のキャラクターはなぎさに比べると割とすんなり入ってきた感じだ。幼い頃に母親が寝たきりになっていることが彼女の人格形成に大きな影響を与えているが、作中でもなぎさが触れているように亡くなったということではないことが非常に重要な要素である。どちらが悲しいかという話ではなく、寝たきりになっていることでいつ目を覚ますのか、もう二度と目を覚まさないかハッキリとしない状況にこれまでずっと置かれていたのだ。紫音はこれまで幾度となく母親に目を覚まして欲しいと願い、声に出してきたということは想像に難くないが、その月日が余りにも長かった。転校が多かったことも相まって、母親のことだけでなく普段の自分の気持ちや願いを口に出すこと、相手に届けようという行動に関しても消極的になってしまっている。初めて二人でラジオをした時に「私には伝えたいことなんてない」と言った紫音のセリフがとても印象的だった。自分自身を振り返ると、自分のことを話したい欲求が今よりずっと強かったのに、この子は何て悲しいことを言うんだろうって。

 なぎさがマイナス方向の感情をうまく伝えられないように、紫音の方はプラス方向の感情をうまく伝えられないようになっていて対照的だ。その二人が偶然ミニFMという狭い範囲にしかとどかないラジオを通して出会ったからこそ物語は進み、小さな奇跡が起きた。

 

④ストーリー進行

 ストーリーを振り返るとこの物語で大きく分けて3つのテーマが進行していた。一つは一番の盛り上がりを見せるラストシーンにあるように「朱音に紫音の声がとどくかどうか」。二つ目は「かえでと夕が仲がどうなるか」。そして3つ目は「なぎさがどう成長するか(自分の気持ちを伝えられるようになるか)」それぞれが同時に進行しながらも、非常にわかりやすく伝わってきて構成の巧さが光っていたと思う。

 最初の二つに関しては、あらすじや予告編の動画から想像していた通りの展開になり、おそらく自分だけではなく皆がまぁこうなるんだろうなっていう予想した通りに物語が進行したのではないか。ただ、大筋の展開が予想通りだったからと言って退屈だった、つまらなかったかというと全くそんなことはなかった。むしろ、期待していったものを期待以上で返して頂いて本当にありがとうという気持ちで一杯だ。

 3つ目のテーマを考える時、一番大事になってくる所は本当にラストのなぎさのシーン。時間にすると非常に短いが、これがあるかないかで物語全体の印象や持つ意味が随分と変わってしまうし、好みもあるんだろうなぁという部分でもある。ただ、個人の好みとこの作品がなぜそう作られたのかは別の話であって、そこを考えていきたい。

 もし、夏休みが終わって校庭で走っているシーンでこの作品が終わっていたのであれば、「朱音に声がとどくという奇跡の物語。そして、この物語を通して成長したなぎさは将来に関してはまだ未定で可能性はいくらでもある」という印象が強くなったのかなと。ただ、最後のシーンをはっきりと描ききったことによって「自分のやりたいことを見つけたなぎさ。その願いを口にすることで自分のなりたいものになれた」という印象が私の中に強く残ることになったのだと思う。その後どうなったのかは皆さんの想像にお任せしますよと余韻を残すこともできたところを、「きみの声をとどけたい」って作品はこういう物語ですよ、こういうメッセージをとどけたいんですよという製作者側の声が私には聞こえてきた。

 

⑤『きみの声をとどけたい』というタイトル

 映画を観終わって作品の内容を一通り振り返ってみた後に、あれ?このタイトルってそういえばどういう意味なんだろうってふと考えた。作品によって作中の印象的なセリフだったり、内容を端的に表した言葉や主人公の名前だったり、意味があったりなかったりとするものだ。ここからはもう単なる妄想に過ぎないが、きみの声をとどけたいという文章の空いているところを補足してみると『(誰が)きみ(誰?)の声を(誰に)とどけたい』のかという文章が浮かび上がってきた。

 元々が仮定の問題に答えは存在しないのは当たり前だけど、色々と妄想を膨らませていくのは面白い。一番最初に浮かんだのは物語の序盤。なぎさが紫音の声を朱音にとどけたいと提案して行動を始めることから物語が動き出した。行動していく内に仲間が増え、川袋電気店のオジさんもみんなの声を商店街にとどけたいと動いてくれた。かえでと夕の和解のためになぎさは二人の声をとどけようと動いていた。最後の放送をするために大吾は境内を使えるように交渉し、しょーちゃんを始め商店街の人も手伝ってくれた。6人の声を紫音と朱音にとどけるために。一つ引いた視点で考えると、製作関係者は『きみの声をとどけたい』という作品を観客にとどけたいと想いをこめていらっしゃるだろうし、私自身もこの作品の良さをこの記事を見たあなたにとどけたいと思って、今この文章を書いている。

 一人の人間が特定の誰かに自分の声をとどけたい、一人の人間が不特定多数のだれかに自分の声をとどけたい、複数の人間がたった一人へ自分達の声をとどけたい、複数の人間が不特定多数へ自分達の声をとどけたい......普段の生活で聞こえてくる声、注意深く聞かないと聞こえない声、自分が発している声。世の中には数え切れないほどたくさんの声で溢れている。

 

⑥まとめ

 「コトダマ」をテーマに、最初から最後まで「言葉」「声」の力をしっかりと描ききったこの作品。「コトダマ」を信じるが故にうまく気持ちを表現できないというマイナスの要素もしっかり描くことによって、変に説教っぽく胡散臭いポジティブ教のようにならず、伝えたいことを伝えつつも爽やかな気持ちで映画館から現実世界へ送り出してくれた名作だ。そして、自分自身が常日頃考えていることを丁寧に描いてくれた感謝の気持ちで一杯だ。

 ここからはもう自分の経験則になってしまうが「言葉には力がある」は間違いなくある。たった一言ありがとうと言われてすごく嬉しい気持ちになるだけでなく、日常的に使っている言葉によって世界に対する認識や行動自体がガラッと変わってしまうことだってある。「願いを口にすれば叶う」というのは真実でも法則でもないが、それを聞いて良い情報を教えてくれたり実現するために協力してくれる人は増えるし、助けてって声を出すと助けてくれる優しい人はたくさんいる。「悪いことを言うと本人に返ってくる」も同様に理論として正しいか正しくないかではないが、強く攻撃的な言葉を多く使っている人は漠然とした何かに不安や恐怖を感じてたり自分に自信がないのかなと思ったりもするし、あんまり近づきたくないよなっていう気持ちはある。ただそのくらい。

 この作品を観て「コトダマ」はあるんだ!!ポジティブな言葉だけを口にしていこう!!って気持ちが強くなりすぎると序盤のなぎさのように「呪い」にかかってしまうかもしれない。逆にこんなご都合主義なことは現実にはありえねー!!「コトダマ」なんてうさんくさいものはないわというのも何だかもったいないなとも思う。

 ダラダラと長文になってしまったけれども「コトダマ」の良いところだけをつまみ食いして、この作品から得たエネルギーを大事に使っていきたいな。願わくばこの名作がまだ存在を知らない人にとどきますように、この記事を見て映画に興味を持ってくれる人が一人でもいれば嬉しいな。そんなことを考えている夏の終わり。

 

 

 

 ※映画を観終わったらこのサントラ

映画『きみの声をとどけたい』オリジナルサウンドトラック「アクアマリンの思い出たち」

映画『きみの声をとどけたい』オリジナルサウンドトラック「アクアマリンの思い出たち」

 

 

小湊伊純は走る~動きで見るポッピンQ~

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ポッピンQは走る。走る。とにかく走る。

主人公である小湊伊純は陸上部に所属し、中学3年で100mを12秒切るような全国でもトップレベルの俊足である。ポッピンQを一度でもご覧になった方は、公開前の特典映像からそうだが、開幕、戦闘、大事な場面、ラストまで走っている伊純の姿が印象として残っているのではないだろうか。もちろん私もその一人である。

 

走るという動作は、前述の通り本作の主人公である伊純のキャラクターを印象づけるものであるが、同時にアニメーションとしての動きを生み出し、その方向によって物語の進行や心情、力関係などを表現する演出の一部であるというのは多くの人が認識していることであろう。ただ、どこまで意図的に作っているか、自身の作風として取り込んでいるかについては演出家ごとに特徴が異なっているはずである。

 

タイトルの通り、今回書きたいことはポッピンQにおける向きと構図である。ただ、それを伝えるためには、前提として私の頭に何があるのかということから始めなければいけないと思うのだが、かわりに一冊の本を紹介することで説明とさせて頂きたい。

 

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 

 内容については、それはもう多くの方が解説されている名著なので、もしまだ読んだことがない方は手にとって頂きたい。私の感想を簡潔に述べておくと、わかっている人は言葉にするまでもなくわかっていることを理論として体系だてていること、そして何よりも原則を絶対的なものではないと自身で語っている所に価値があったという感じだ。

 

前回書いた「評価」に関する記事と同様、今回の記事に関しても自分自身の強い主張を伝えるとかではなく、ちょっと頭に浮かんだ問いを書いてみようという気持ちである。結論というものがないので、まずは動きが大きい場面ごとにポッピンQ本編ではどうなっていたか書いていこうと思う。

 

 

※以下本編のネタバレ有り!!(画像は現在も公開されてる動画から)

 

 

①冒頭

顔のアップ↓から始まり道を辿って最終的に→

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②100m

→(陸上競技場のメインスタンドから見る方向)

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※電車の進行方向

←学校へ向かう方向 伊純が乗る方向→

 

③キグルミ 

→で逃げ始めて、あさひが待っている方向へ←

 

グロスと対峙

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⑤コロシアム

⑥戦闘終了後、レノと対峙

←(レノとレミィ&沙紀の間に伊純が入り←を向く構図)

⑦橋を渡るシーン

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⑧黒〇〇

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⑨別れ

⑩校門まで

⑪校舎から体育館の流れ

⑫美晴ちゃんへのバトン

→と思いきや←

⑬卒業は新しいスタートライン

← ↓顔のアップで〆

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他にパッと思い出せるところで言えば

・蒼の投げる紙飛行機の方向は→

・入学式でのキリシマ君(彼が下手、学生は上手)

・ラストのラスト(赤い球体は下手、沙紀と伊純は上手)

 

ただ、このように対比や上手下手の関係については挙げ始めるとキリがない。そして、全てを意図的にやっているのか、大事なシーンだけは意図的にしているか、全く無意識(経験)で絵コンテを切っているかは想像の域をでない。(第3回ファンミーティングの中で、若干情報は出ていたがそれはたった一つの事実ではない。)

以上のことを踏まえて、それでも妄想として自分が考えているのは

・物語序盤の進行方向は→の傾向。時の谷に入ってから基本的な進行方向は←

・→については後向きという感じ。←は前向き、立ち向かうという感じ。

・戦闘においては上手が強い。

・全体的に変わる分岐点は⑤と⑥の間で「超えた」ところ

という感じ。これが正しいのか、間違っているのかを議論したいのではなくて、私はこんな感じの印象として受けとりましたってことを書きたかった。そして、ファンミーティングの時にもしも当ててもらえたなら質問しようと思っていたことなのだ。残念。

 

...しかし!な、な、なんと、宮原監督や金丸Pに直接の質問ができなくても、新たに考える材料になる公式資料集、ポッピンQプロダクションノート「THE BEGINNING OF THE YOUTH」4/28に発売になるのだ。

 

ポッピンQプロダクションノート『THE BEGINNING OF THE YOUTH』

ポッピンQプロダクションノート『THE BEGINNING OF THE YOUTH』

 

 

キャラクター設定と美術設定をふんだんに盛り込み、さらに名場面の背景美術を加えた「設定資料集」と、黒星紅白先生の原案イラスト、宮原監督イメージボード、絵コンテ、動画、さらに完成台本までを収録した「プロダクションノート」の豪華2冊組み!これはもう買うっきゃない!

 

見る度に新しい発見があり、見る度に心に強く残る作品「ポッピンQ」

BD/DVDの発売6/2に控え、まだまだ今後の展開から目が離せない。

 

 

 

あなたはポッピンQをどう評価する?

 

まず、この記事を開いたあなた!そう、そこのあなた!

映画ポッピンQはご存知?既にご覧になった?

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数々の映画が大ヒットを記録した2016年、その年末に暴投スレスレのインハイに全力ストレートを投げ込んできたかたのような、このポッピンQという作品。自ら頭に当たりにいって、はや一ヶ月半。未だに、顔面にボールがめり込んだ状態にある。

黒星紅白氏によるキャラクターデザイン、3Dアニメ、ダンス、マスコットキャラ、異世界での冒険、アクション、少女達のほんの少しの成長、卒業...要素自体を一つ一つ分解していくと、幅広い層に向けて作られた作品なんだろうなと予想はできるが、実際に約95分の作品として出来上がったものは観ていてどこか不安があるモノになっていると感じた。いわゆる一般受けするような、安定感があり完成度が高いと言われている作品とは絶対に違う。でも、私は好きだ。大好きだ。作品から熱が伝わってくる。

そんな不思議な魅力を言葉ではうまく表現できないなと思いつつ、Twitterでは公開初日から、ちょこちょこと感想や考えをツイートし続けている。そして、全国で公開終了となる2/10に何か残しておきたいという気持ちから、今回ポッピンQに関する記事を書くことに決めた。

 

じゃあ私は何について、主に誰に向けて書こうかと考えた始めたが...作品紹介をするくらいなら公開されている動画や公式HP、各メディアから公開されている公式の記事をすすめるほうが手っ取り早い。

また、作品内容の解釈の仕方や感想、評論については、大量とまでは言わないが色々な視点から考察されているし、興行や広告面含めた総合評価(?)のようなものも散見される。そうして考えていった時に、ふと思い浮かんだのが「評価」「批評」についての記事。ポッピンQに限らず、作品鑑賞をする時の自分の前提条件のような、今まで頭には漠然としてあったモノを文字で整理してみたいという気持ちがわいてきて、今回はそれを一緒にまとめて記事にしてみたい。題して、あなたはポッピンQをどう評価する?

 

・評価っていったい何?

まずは言葉の定義から。”評価とは物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること。”(Wikipediaから引用)と定義されている。では、評価する上で注意する点は何か。それは「評価者に対する信用性」「評価方法に対する信用性」である。評価するものが定められた評価基準に対する知識を十分に持っていること、そして評価する際に主観が入らないようなシステムが必要である。

 

・芸術作品における評価とは?

一般的な評価という言葉を踏まえた上で、芸術作品における評価方法とは何かを考えていくとどうだろうか。評価者はいったい誰だろう?標準的な評価方法ってどんなものだろう?誰がその評価方法を決めたのだろう?...と様々な疑問が出てくると思う。その中で今回一つの例として考えていくのがポッピンQだが、まず娯楽作品として扱うのか芸術作品として扱うのか、それともまた別のくくりがあるのかを考える必要がある。そして、次の段階でも映画として扱うのか、アニメとして扱うのか、アニメ映画として扱うのか、それともメディアミックス展開する作品の一つとして見るのか...そう考え始めるとキリがないし、最終的には単純に比較できないよね?なんて極端な意見もでてくる。じゃあ、実際にはどんな方法で評価されているかというと

 

①興行収入や観客動員数等のビジネスの指標としての数字

②制作者側を評価するための〇〇賞

③鑑賞者による作品の内容に関する評論

そしてこの3つを踏まえた

④鑑賞者による全てを総合した評論

 

以上4つが普段わかりやすく目に見える形での評価ではないだろうか。※もちろんこれ以外にも評価をされている場面はあるだろうが、この分類で話をすすめていく。

 

・私が普段気になっていること

日常生活を送っている中で例えばテレビのニュースとして流れてくるのは①、②がメインである。また、コメンテーターによる評論とまではいかない感想だったりする。SNSを利用すれば、③や④もいくらでも情報として入手することができる。ただ、情報に溢れているため、誰が、どのような評価方法で、どういった意図で行ったのかがわからない、①~④の情報が入り混じった③か④らしきなモノもある。その上、何の意図も整理もされていない感想がさらに混ざり合って、評判という目に見えないものが形成されていくという認識だ。こんな状況のなかで、自分なりの評価軸を持って、自信を持って作品を評論をしている人ってどれくらいいるんだろう?っていうのが研究(?)テーマとして興味深くて、他人のレビュー、評価、評論について普段考えていたりする。

 

・③作品の内容に関する評論と④全てを総合した評論に対しての個人的な姿勢

先に書いておくが、感想、妄想、叩きと評論は別の行為である。(PV稼ぎのために、対立を煽った見出しをつけたり、デマやネガキャンを繰り返すまとめサイトは論外)

③他人の評論については、基本的には否定はしないし、新しい視点を提示してもらえるという自分にとって利益になるため歓迎したい。ただ、明らかに言葉の意味を取り違えていたり、推測の根拠がなく妄想になっている部分があったり、論理的に破綻している場合は首をかしげることはある。

④総合的な批評について。私自身、個人的な趣味として考えたり、先日Twitterでやった「自分が選ぶアニメベスト10」などの指標として使うのも基本的にはこれを基準にする。ただ、先述の通り明確な評価基準などが決められていない場面で、業界関係者ではない個人がこれをやる意義は自己満足以外にあまりないと考えている。※PVを稼ぐためにいかにも批評っぽい文章を書く人は多いだろうけど。

 

・具体例としてのポッピンQという作品

興行収入や観客動員数等のビジネスの指標としての数字

興行収入や観客動員数については、具体的にまだ公表されていないがヒットと言える状況でないのは諸々のデータから類推される。

制作者側を評価するための〇〇賞

〇〇映画賞、〇〇作品賞などを獲得したというのを聞いたことはない(実際に獲っていたらご指摘を頂きたい)

鑑賞者による作品の内容に関する評論

調べればいくらでもでてくるし、何か解答を提示することが今回の記事の趣旨ではない。私個人の評論はテーマごとに今後まとめて書くかもしれないし、書かないかもしれない。(Twitterでは断片的には書いている)もしも、今後ポッピンQを見る予定があって、その上でこの記事をここまで読んで下さった稀有な方がいらっしゃるのであれば、何もバイアスがかかっていない真っ白な状態でポッピンQという作品を鑑賞してみて欲しい。

鑑賞者による全てを総合した評論

評価の方法(評価する要素はどこなのか、各要素の傾斜配点はどうするのか、100点満点から減点していくのか、☆3を標準とした所から増減していくのか、他の作品との相対評価を考えるのか、そもそも数値化して比較するのか等々)が全く定まっていない状態では、何も論ずることはできない。では、仮に数値化できるとして各要素を100点満点で採点。自分の重視する要素を1.5倍計算(150点満点)とし、気にしない要素を0.5倍計算(50点満点)とする。そして合計点÷要素の数を総合点とする方式でポッピンQの一部分だけ抜き出して評価してみる。

 

・ストーリー 100点 ・キャラクター 100点 ・ダンス 100点 ・興行収入 20点

・金丸Pの頑張り 100点 ・宮原監督の笑顔 150点  総合点  99点

 

これまで長々と読んで頂いた方の中には「何つまんないボケをいれてんだよ!スベってるぞ!」って思われた方もいるかと思う...ごめんなさい、でもこれが私の評価なのはマジなんだ。これまで真面目に書いてきたし、客観的になるように意識してきた部分もあるけど、今回何が言いたいかっていうと基準を明確にして揃えようとしなければ、いくら客観的に努めようとしてもどうやったって主観は排除できないということなのだ。

④っぽいポッピンQの評論をかなりの数を見てきた自負があるが、誰かこの基準を揃えようと思った人はいるだろうか。いや、絶対にいない、やろうとしても他の人がその基準に従って評価を進める妥当性が全く無いからだ。そもそも、この記事を書いている私自身に「評価者としての信用性」があるかないかは、いったい誰がどうやって評価するのだろうか。

 

・優れた映画っていうのはなんだろうか?

公開初日から今日に至るまで、毎日のようにポッピンQで感想も検索していて世間の評価のされ方は把握している方だと思う。公開当初に流れてきた感想で多かったのを自分の観測範囲分だけでざっくりとまとめると「誰に向けて作られた作品なのかわからなかった、ストーリーは駆け足で、個人のキャラクターの心情は主人公以外は特に描写不足、展開はご都合。テレビシリーズで丁寧に時間をかけてやってもらったら良かったのに」っていう感じだと思う。最後の一文があるだけでまたポジティブな方である。

これらの評価は一つの評価基準からみると非常に的確な批評だと思うし、先に述べているように否定をするために書いたわけでもない。ただ、その評価基準ってなんだろう?って考えていくと、「約95分という限られた尺の中で、過不足無くストーリーの展開とキャラクターの心理を描き、本題であるテーマを初見でだれでも理解できるような形でサービス提供をすべきだったのに、要素を盛り込み過ぎてしまってバランスが非常に悪くなっているから、自分が思い描いている映画の理想系を100点としたところから減点をしていきました」という印象を受けた。(※あくまで勝手な偏見)そして自分自身も初見の時に少なからず感じてしまった部分でもある。じゃあ優れた映画っていうのはなんだろうか?明確に一つの解答がある問いなんだろうか。

 

・ポッピンQの魅力

ポッピンQの魅力は、徐々にではあるが口コミで広がっていて、ポッピンQで検索をすると、どこが好きか、どこが面白いかを連日語る人が増えているように感じるのは私だけではないはずだ。根拠となる部分は割愛するが、「ポッピンQは純文学である」といい続けている加藤氏の言葉、ポッピン・ドロップを読んでから2回目を観ると全然違った風に見える、見る度にどんどん違う見え方が増えてくる、考えれば考えるほど新しい疑問が湧いて来る...等々とにかく徐々に面白さに気づいていくような遅効性のモノなのかもしれない。

そして、もちろん初見の時から感動して泣いてしまったという人も少なからずいる。そういう方は作中では明確な描写はないが、細かい部分から自分自身で余白を埋めることが出来たという感受性に豊んだ人なのだ。私自身は、恥ずかしながら初見の時には見逃している部分が非常に多く、ポッピン・ドロップを読んでからの2回目が一番の衝撃が走った。ポッピンQは映画内では全てを描ききってはいない、明確な解決策を持って帰るのではない、ショーダンスではなく祈りや舞、あくまで自分自身との対話...そうか、なるほどと段々と腑に落ちるところが増えていった。そして、魅力を感じる部分は人それぞれ違う、多面的な作品なのだ。そして、その要素はいっぱいに詰まっている。

私は作品鑑賞をする際、どうしてもストーリーや物語の構成から入ってしまい、その作り方の評価から入ってしまう。そして、私と同じような人は年齢を重ねるごとに、様々な作品に触れるにつれて成長(別の視点からすると退化)してしまうのではないか。

ポッピンQは子供も気軽に楽しめるわかりやすい王道のエンタメ作品でありがながら、物語を読みといていく楽しさも味わえる文学作品でもある。というのが持論である。どちらか一方が正しい見方だとは思わない。

 

 ※もしまだポッピン・ドロップを読んでない方がいたら、すぐにでもポチって欲しい 

 本編だけではいまいち描写が足りなくてわからなかった...という方にこそオススメ

 

・おわりに

想定以上に長々と書いてしまったし、無駄に面倒に書いてしまった感じもするが、こんなに分解してみなくても、届く人には最初からストレートに届く作品なのだ。作中の言葉を引用するなら、「だって世界はシンプルなんだから」本当にその通りだ。ストレートに届かなかった人が多かったのは、今の時代に流行している作品の作り方をなぞっていないからだと思う。だからこそ受け取る側は混乱してしまった、その混乱状態から早く復帰したくて、バッサリと切ってしまった人が多かったのではなかろうか。そこに読解力という能力の優劣や、善悪はないと思う。

映画ポッピンQの上映はひとまず終了してしまったが、何よりポッピンQの世界はまだまだ終わっていない。宮原直樹監督の頭の中で、壮大なスケールの世界が存在している。その上で一度でもポッピンQを観た人達に、公開最終日に、最後に改めて問いかけてみたいと思う。

 

 

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