映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』感想の補足

2/24に公開したこの記事の続き?みたいな記事なので、もしこちらのページを先に開いた方がいたら、まずこちらからどうぞ。

ssslod122.hatenablog.com

それぞれの項目に追記をしても良かったんだけど、さらに見づらくなるかなってのと

初見の感想はそれとして大事にしておこうみたいな気持ちで別記事にすることに...

 

 

さて、この記事を公開した初日の2/24、改めて『さよならの朝に約束の花をかざろう』を鑑賞してきました。初見の時に見落としたセリフ、表情、感情、背景がたくさんあり、良い意味でとても落ち着いてこの世界のことを観ることができたと自分なりには思ってます。自分の能力では、オリジナルの映画は最低でも2回鑑賞しないと拾いきれないことがたくさんあるなって思い始めてます。それでは前置きはこれくらいにして前回の記事同様、項目分けをしてまたダラダラ書いていきます。

 

・タイトル「さよならの朝に約束の花を飾ろう」

まず前回のがこちら↓

タイトルにするくらい大事な言葉なのに、これがまだうまくしっくりきていない。前半のさよならの朝ってのはラストのエリアルとの別れだろう。「約束の花」これが多分見落としがある。劇中でマキアとエリアルの中で約束という単語は何度か使われていて、マキアがお母さんは泣かないというのも、エリアルが守るというのも約束であったはず。約束ってのは大事だし素敵なことだけど、約束を交わした両者自身も変化していくしとりまく状況が変わっているのにも関わらず約束を守ることを一番大事にしてしまうと、もっと大事なことを見落とすこともある。イゾルの忠誠なんかもこれか。臨機応変に約束をしなおすのも必要な時もあるかも...と話が脱線していったが、あとは花。マキアが最後に胸に飾った3つ?の花...レナトとイオルフともう一つ、夜に咲く花?だっけあれ関係あんのかな...次は集中して見落とさないようにしよう。

 

 まず、さよならの朝をエリアルとの別れだけじゃないわ!マキアが最初にイオルフの里から逃れてエリアルと出会うのも深夜~朝、戦争が終わった時も朝、とにかく出会いと別れのシーンは朝が多かった。つまり特定のシーンを朝というのではなく、終わりと始まりというのが朝ということであり、毎朝が誰かのさよならの朝ってことなのかなと。

 次に約束の花。たんぽぽの花言葉に「真心の愛」「別離」というのがあるのでそれが一つであることはまぁそうでしょう。で、作中にでてくる花に注目してみていたんだけど、イオルフの夜中に光る青い花、幼少期のディタが謝る際にもってきた花(3輪?)、マキアとエリアルが二人で住んでいた部屋に飾ってある花(2鉢?)、エリアルとディタの家の花、ラストのたんぽぽ(胸に3本さしてた?)と思ったより種類がでていて。花の名前がわかれば花言葉を調べてその場面に関係あるのかないのかからまず考えられるのだけど、絵だけで何の花かわからない自分が悔しい...もしお花詳しい方がいらっしゃったら情報提供を頂きたいくらい。本数はなんか関係あるのかな~ 薔薇が本数によって意味が変わるっていうのは知ってるが。あとは何だろう神仏や死者に供える花、手向け花っていうのでも良いのかな。と、ここまで実在する花についてまず考えてきたけれども、そうではなくて抽象的な概念を「花」という言葉で表現しているのかもね。綺麗なもののたとえとか、もっとも輝いている時期とか。こうして考えていくとたくさんの意味を「花」という言葉で表現してそうだ。

 そして飾ろうだ。花の時に考えたことをつなげていくと装飾するとか、並べるとか単純に飾るってことじゃなくて、有終の美を飾るとかそういう飾るなのかな。飾るという言葉を調べてみたが、「立派にやりとげることによって価値あるものにする」っていうのがあってこれが近い感じ。

「さよならの朝に約束の花を飾ろう」ってまーた長いタイトルって若干思ってはいたものの考えていくと、あぁいいタイトルでぴったりですねってなるね。素敵んぐ。

 

レナト

これがやっぱりしっくりくる考えに至らなかった。この作品を観た友人達にも見解をきいてみたんだけど...そうかもしれないんだけどもっとなんかありそうみたいな感じでしっくりこない。まず赤目病の発症条件に対する解釈がぜんぜん違う、もちろん作中で語られていないから想像で補うしかないんだけど。人間よりも遥か高次の存在で、人間が想像できるような価値基準や感情で推しはなれない行動原理という感じなんだろうけど...なんらかの暗喩というかそういうとこがありそうで。持論がある方は是非教えて下さい。

 

・全体の構造

2回目の鑑賞で少し落ち着いてみれたから感じたことだが、やはりラストのマキアとエリアルのお別れのシーン(特に回想でお母さんっていう言葉が大量に流れてくる演出)が強すぎて、あの演出の意図をどうしても考えてしまうようになった。決して苦言を呈するという意思はないんだけれど、自分があのラストシーンの直前までこの物語の描き方は素敵だなと感じていた部分が失われてしまった、別の物語に変容してしまったような寂しさ?が若干あったという感じ。前の記事で「母性」の項目で書いたようにマキア、レイリア、ミド、ディタと主要キャラでそれぞれ母親としての対比が描かれていて、それによってこれが絶対の理想の母親像っていうのは無いんだよ、どれも肯定するよっていう優しさを感じていたんだけれど。抽象的な話になるかもしれないが、それぞれの母子、母子の関係をA~Dとすると、A~Dっていう関係性があるよね、だからA~Zもあるよねーって物語にするんだったら、戦争後にマキアとエリアルと別れるシーンでAはひとまずの区切りと迎えている。そして、その後のエピローグとするのであれば少しずつa,b,c,dと描いてAのラストシーンで締める感じになるのかなーと思っていたところで、AAAAAAAAAAAみたいな強すぎるシーンがラストにきてしまったがゆえに鑑賞直後に残る印象がAのお話だったよねーって引っ張られそうなのがもったいないという感覚で。あのラストシーン、わかってはいるけど、ベタなのはわかってるけど泣いてしまったしとても良いシーンなんだけど...強すぎる!!強すぎるのをわかっててあえてあの構成にした製作側の意図をどうしても読んでしまう。それをわかっててやってるのは間違いないのだから。インタビューとかでちゃんと語りにくいだろうなーって思うから、無理なのは承知だけどプライベートでぶっちゃけこういう意図でやったんだよねってのを聞いてみたいなと思った。

 

 

鑑賞中はもっと何かを考えていて、これを覚えておこうと思うことがあるんだけどどうしても忘れてしまうので、この続きは円盤がでたりした後かなと思います。作品はただそこに存在しているだけで、自分自身が普段の生活で何かを経験して、何かを考えて、新しい作品に触れて、他の人と会話をして変化(成長ではない)が起きたときにまた作品の新しい面が見れると思っているので。

 

またこの作品に触れる時まで、新たな人と新たな作品に出会っていろんな考え方や感情を自らのヒビオルに記録していければなーと。そして、この記事が誰かのヒビオルの横糸になっていたら嬉しいなぁーとそんな風に思いました。おしまい。